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2017-06-06

タケシゲ醤油の歴史【前編】

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(文:タケシゲ醤油 代表取締役 住田友香子)

料理人ご用達の醤油
地元福岡でもお客様とお話していると、特に年配の方から「私は博多の人間だけど、タケシゲ醤油は聞いたことがないね」と言われます。
それもそのはず、タケシゲ醤油は数年前まで業務用中心でしたので、飲食店などでこの味を口にしていただいたことはあったとしても、屋号自体は一般の方にはほとんど知られることのない醤油屋。
「知っているよ!」と言われる方が不思議なくらいでした。

ただ、「昔は五福醤油という名前だったんですよ」と言うと、
「えっ五福醤油? 懐かしい! 幼い頃うちは使ってたよ」と話に花が咲いたり、
「祖母が、もういっぺん五福醤油でがめ煮(筑前煮)を作りたかぁと亡くなる寸前まで言ってたのよ」
などとおっしゃる方もいらっしゃいました。
中には私たちも知らない大昔のお話をしてくださる方もいて、私たちが引き継いだ醤油屋はここ福岡で皆様に愛されていたんだな~と感じることが多々あります。

全国品評会で絶賛された味
タケシゲ醤油の前身である五福醤油は、明治12(1879)年に現在の博多区呉服町で創業いたしました。ですが、真のルーツは江戸時代にまでさかのぼります。
元々武家だった奥村利助(初代)が黒田官兵衛と一緒に播磨より中津へ入り、更に福岡に移り博多の豪商 大賀宗久の商いに加わり貿易商に転向します。やがて博多の豪商の一人となり、事業を広げていきます。中には藩の御典医を努めたものもいるそうです。
博多の歴史書に「1752年に中島町の奥村玉蘭の本家からの分家として奥村次吉が石堂醤油を醸造した。」とあり、五福醤油はこの石堂醤油からスタートしたといわれています。
余談ですが、奥村玉蘭は博多を代表する文化人の一人で、太宰府天満宮にある絵馬堂の建立を発願しました。絵馬堂には現在も玉蘭筆の「西都奇観および孔雀図額」が掲出されていますので、ぜひご覧になってみてください。

石堂醤油当主は代々「次吉」を名乗り、10代藩主黒田斉清の時代に苗字、帯刀を許され、その当時の博多の街では大変な名誉職である年行司に就任しました。この年行司としての格式を示す脇指と短剣、陣笠・陣羽織・旗等の装束類は福岡市博物館に収蔵されています。
5代次吉はわが国で最初のびん詰め醤油を販売したと記録されており、この時に販路は海外にまで及んだようで、当時の従業員がびん詰め醤油を提げている写真も残されています。

五福醤油という屋号は、古代中国の「書経」洪範にある「一曰壽、二曰富、三曰康寧、四曰攸好徳、五曰考終命、此即五福云。1つ目は長寿であること、2つ目はに裕福であること、3つ目は健康であること、4つ目は人徳があること、5つ目は天命を全うすること、それが五福である。」という人生を説いた教えに当時の社長が大変感銘を受け、縁起が良いということで引用し名付けたそうです。
全国品評会でも高い評価を受け、13年以上連続で最高賞位を受賞した記録が残されており、これは当時としてもかなり名誉なことだったようで、店前に受賞記念の大きな看板を掲げていた写真が残されています。
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この時に頂いた大きな表彰額は現在タケシゲ醤油の店舗に飾られています。

しかし、度重なる道路拡張による都市化の影響を何度も受けてしまい、平成4年に五福醤油として113年という歴史に幕を下ろすことになりました。
新聞やテレビでも大々的に報道され「親戚のおじさんが大きく新聞に載っている!」と驚いた覚えがあります。
この廃業が決まったころ、実は多くの飲食店の方から「五福醤油がなくなるのは自分たちにとっても死活問題だから、なくしてもらっては困る」との申し出があったそうです。

タケシゲ醤油の時代へ
そこで、この奥村家と親戚筋である私の父 竹重允勝が「タケシゲ醤油」として引き受けることになります。
福岡市南区平和町にて敷地内に所有していたアパートの一室を事務所として、工場は持たず昔からの味はそのままで製造していただけるところに委託をお願いして、この味を引き継ぐことになりました。
しかし父はその後この醤油屋を誰かに継ぐということは考えておらず、時期が来たら今度こそ本当に廃業しようと考えており、娘である私もそれは当然と考えておりました。

その頃、名古屋生まれ名古屋育ちの夫は地元のデザイン会社でグラフィックの仕事に携わり、30歳を迎えた時に故郷を離れさらに仕事を極めてみたいと決意しました。
新たな拠点は大阪か福岡のどちらかにしようと両方で就職活動を始めたところ、すぐに福岡での採用が決まり福岡に移住します。
私は福岡にて複写機販売の営業の後、航空系の商社に転職。食品や雑貨などを扱う営業職をしていました。
そんな私たちが出会い結婚することになりましたが、良い上司、同僚にも恵まれていたのでいつまでもこの会社で働くつもりでおりました。これは夫も同様だったようです。

運命を変えた一滴のしょうゆ
ある晩、私は実家(タケシゲ醤油)の「富」という醤油をかけて食卓に出しました。
この豆腐を口にした夫が驚いてこう言ったのです。
「この冷や奴なんでこんなおいしいの!?」
(普通に醤油かけただけだけど…)
「醤油をかけただけ!?こんな美味しい醤油を絶やすのはもったいない。自分が跡を継ぎたい!」と唐突に言い出したのです。

安定した仕事を手放してまでできる仕事ではないと、最初はみんなで反対しました。
しかし夫の意志は固く、好きな仕事を辞めてまでこの醤油にかけようとしている夫を見ているうちに、苦労するならば夫婦でと思うようになったのです。
私は営業経験も長いし夫婦で挑戦してみよう、と今思えば勢いだけでこのタケシゲ醤油を継ぐことになりました。

最初の挫折と多くの方の「ありがとう」
やる気さえあれば醤油を販売するのはそんなに苦労しないだろうと軽く考えていた私たちは、この世界に入ってすぐに現実を知ることになります。
当時のタケシゲ醤油は店舗もなく倉庫と事務所のみ。
周囲の人たちから「世界一場所がわかりにくい醤油屋」と揶揄されるほど立地条件が悪く、お客様を呼びたくても呼べません。
また、醤油自体の消費量が年々下がってきていて、売り込みに行っても見向きもしてもらえません。
焦って何人ものコンサルタントや会計士などに相談しましたが「かなり厳しい」と言われ、中には「私だったら絶対にやらない。早く畳んだ方が良い」とまで言われたこともありました。
廃業に向けて進んでいた舵を180度転換させるのは、ゼロからのスタートよりも過酷なものだと思い知らされることになります。

その中での唯一の救いは、今考えても不思議な出来事でしたが、ほぼ毎日のようにあちこちから「醤油屋を継いでくれることになったと噂で聞いた。本当にありがとう」と感謝の電話がかかってきたことです。
こんなにたくさんの方たちが「ありがとう」を言うためだけに連絡をくださる…この醤油屋って一体何なんだろう、と改めて醤油たちと向き合うことになりました。

後編の「博多ニワカそうす誕生秘話」へ続きます

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